20th Campus Genius Award
第20回学生CGコンテスト
ノミネートnominate

観客は、時の止まったような古びた写真館の、主人の所作や言葉、シャッター音などで構成された独特の映像に引きこまれる。映像だと思って見ていると、自分が撮影され、その写真が映像の中に出現するという驚きの瞬間に遭遇する。見る立場から、被写体(ターゲット)として映像内の空間につながる関係の中に突然、強制的に組み込まれるのだ。映像の完成度が高いがゆえに、さりげないインタラクションが入り込む効果も際立って高い。作品と鑑賞者の関係性の変化、鑑賞者自身の心理的変化を入念に検討した上で制作された、これまでにないインタラクティブ・インスタレーションとして評価した。
(四方幸子)

過去に撮影された、古い写真スタジオでの映像に、その場で撮影された画像がリアルタイムに合成される。作者は、これを「映像と鑑賞者の間に即席の関係を与える」作品だとし、「鑑賞者は自身のイメージが同居する映像を一つのフィクションとして受け入れるかという葛藤の中で映像を鑑賞することになる」としている。が、果たしてどうだろうか。インタラクティブになりえない、過去に撮影された映像のタイムラインに、「半ば暴力的」に撮影された「今」が入り込むことの機能や面白さは理解できるものの、それがコンピューターによって合成されていると気付くまでにそれほど時間はかからないだろう。そして、ひとたびその仕組みがわかってしまえば、観光地の顔ハメ看板以上の驚きはそこにない。「時間的な主導権を握っているのは映画自体である」としながらも、そこで行われているのは、「過去に撮影された映像」という、インタラクティブ不可能で不可侵な形式に偽装した、圧倒的にリアルタイムな映像であり、そうした合成が生じ、それが知覚された時点で、「過去に撮影された映像」が持つ不可侵な存在感が失われてしまっているからだ。
(谷口暁彦)

この作品に出てくるカメラマンはまだ生きているのだろうか。今はまだどこかで生きていそうな気もするが、30年後はかなり怪しいと思う。それでは今から30年後、この作品を展示したときのことを想定してみよう。 30年後、私はこの作品を通じて、映像の中のカメラマンに写真を撮影されることになる。彼はもう死んでいる。写真は(その連続である映像もそうだが)、高い真正性や人間の寿命に比べて長いタイムスケールを持つことから、「潜在的に遺影である」などと言われたりする。実際、この作品に取り込まれた体験者の画像も100年後には遺影である。となると、この死んでいるカメラマンは予め遺影を撮影していることになり、やや倒錯した状況が生まれる。また、この作品が特に何のトリガーもなくひたすら動き続けるのだとしたら、どこかのタイミングで人が居ない状況で動作する時がくるだろう。そうなった場合、このカメラマンは一体何を翌週まで待つのだろうか。 もちろん映像に映る人は、その人自体ではない。だからこうして不思議な感覚に陥ったりすること自体、ナンセンスなのかもしれないが、物語を持った映像と実空間が相互に介入しあうこの作品の構造は、写真や映像が持つリアリティに新しい角度から揺らぎを与え、奇妙なイリュージョンへと鑑賞者を誘う。
(渡邉朋也)